2009年06月29日

日本の一部としての立場から米軍統治を経て独立をした

第二次世界大戦が終結した後、日本の一部としての立場から米軍統治を経て独立をした。李承晩・金九ら右派民族主義者を中心として建国された当初から、現在に至るまで日韓関係は冷ややかなものである。当時から韓国側には日韓併合と、それに伴う同化政策に関して謝罪や賠償を行わないことに対する批判があった。

一方、日本側には「自国固有の領土である」と認識されている竹島(韓国名は独島)を、韓国が「我が国の領土である」と主張して一方的に武力占拠、日本海上に一方的に李承晩ラインを設定し、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕し乗員を不法に抑留・殺害してきた。この時代には、第一大邦丸事件のように、多数の日本人が韓国人によって殺害された。
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李承晩政権期は国交断絶状態であったが、朴正煕政権が成立して両国の国交正常化交渉が本格化した。国交正常化交渉の過程では請求権問題が最も紛糾した。韓国による対日請求権の主張に対して日本側は、日本統治時代に朝鮮半島に投下した資本および引き揚げた日本人が残した財産(GHQ調査で52.5億ドル[3])を主張することで韓国側に対抗した。

結局、日韓基本条約とともに締結された「日韓請求権及び経済協力協定」にもとづいて、日本は約11億ドルの無償資金と借款を援助し、韓国は、日本による経済協力と引き換えに対日請求権を放棄した。韓国はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)であった[4]。

2009年06月12日

肝細胞癌の進行度は、基本的にはTNM分類に

肝細胞癌の進行度は、基本的にはTNM分類に基づいて表現される。ただし日本では、日本肝癌研究会による原発性肝癌取扱い規約が広く使用されている。

T因子
腫瘍の個数、大きさ、脈管侵襲の3項目で決定される。単発であるか?径が2cm以下であるか?脈管侵襲はないか?この3つの問いかけにNOと言った個数でステージングされる。
N因子
リンパ節転移を認めるか否かである。
M因子
遠隔転移を認めるか否かである。
StageI(T1N0M0)、StageII(T2N0M0)、StageIII(T3N0M0)、StageIVA(T4N0M0またはTxN1M0)、StageIVB(TxNxM1)である。

治療 [編集]
様々な治療が行われる。主なものは次の通り。

手術
肝切除
(肝移植)
経皮的エタノール注入療法(PEIT; percutaneous ethanol injection therapy)
マイクロ波凝固療法(MCT; microwave coagulation therapy)
ラジオ波焼灼療法(RFA; radiofrequency ablation)
経カテーテル動脈塞栓術(TAE; transcatheter arterial embolization)
化学療法
全身化学療法
肝動注化学療法
放射線療法
このうち根治性(治りきる可能性)が高いのは肝切除・PEIT・MCTおよびRFAであり、可能であればこれらの治療が第一選択となる。PEITは治療に伴う合併症が少ない一方、再発率は低くない。

肝切除 [編集]
腫瘍を含む肝臓を切除する手術療法である。切除範囲は腫瘍の位置や広がりによって決定される。正常肝では処理能力にかなりの余裕があるため肝の大部分を切除する手術も可能であるが、肝硬変では肝予備能が低下しているため切除できる量が限られる。肝細胞癌患者の多くは肝硬変がベースにあるため、必要な切除量とのバランスが取れず手術ができないことも多い。また肝外転移がある場合は切除による生存期間の延長が見込めないため適用にならない。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

PEIT・MCT・RFA [編集]
原理は異なるが、いずれも肝臓に針を刺して腫瘍とその周囲のみを壊死させる方法である。残肝に対する影響が小さいため、肝予備能が低くても施行可能である。ただし腫瘍が大きすぎるもの、数が多すぎるものは適用にならない(一般的には3cm、3個まで)。また主要な血管・胆管に接するもの、心臓・肺に近接するもの、肝表面に突出しているものは技術的に施行が困難である(人工腹水・人工胸水を用いる方法や、腹腔鏡、胸腔鏡を併用したアプローチにより、積極的に治療を行う施設もある)。PEITは、3cm・3個までの肝細胞癌に対する治療成績が手術に劣ることが過去の臨床データの集積により明らかにされた。それ以降、治療法の第一選択として行われなくなりつつある。

TAE・肝動注化学療法 [編集]
手術の適用にならないもの(肝予備能が悪い、腫瘍が肝臓の広範囲に散らばっている、等)に行われるが、肝予備能がある程度悪かったり、多発していても施行可能である。TAEは腫瘍を栄養する肝動脈にカテーテルを挿入し、塞栓物質を流す方法である。腫瘍細胞を栄養するのは動脈のみであるが、正常細胞は動脈と門脈の双方から栄養されるため、TAEによって腫瘍細胞のみをいわば『兵糧攻め』することができる。門脈が閉塞している場合などは正常細胞も影響を受けるため基本的に適用外となる。このTAEの変法として塞栓物質に抗癌剤(塩酸エピルビシン、マイトマイシンC、シスプラチン 等)を混ぜて肝動脈に挿入したカテーテルから流す方法があり、TACEと呼ばれている。肝動注化学療法は肝動脈にカテーテルを留置し、定期的に抗癌剤(シスプラチン、5-FU等)を注入する方法である(Low dose FP療法など)。TAEが適用外となる症例に対して行われることが多い(奏効率は約40%と言われている)。また、動注化学療法にインターフェロンを併用する治療法もある(FAIT療法)。以前は肝細胞癌に対するシスプラチンの動注化学療法は保険適用外であったが、2004年6月から健康保険が適用され、保険診療で行えるようになった(ただし、動脈注射用のシスプラチンはワンショットでの投与法しか認められておらず、従来の持続動注が完全な保険適用になったわけではない)。 インターフェロンβと抗がん剤の動注療法も施行されている

2009年06月07日

根拠地隊・特別根拠地隊

拠点を臨時の海軍基地として管理運営する組織である。純粋な陸戦隊ではなく、艦艇部隊・燃料廠などの港湾部門・設営隊などを有しているが、基地防衛任務のために陸戦隊の一種である警備隊や防空隊も隷下に収めている。例えばビアク島駐留の第28特別根拠地隊は、第18警備隊・第19警備隊などを有した。タラワ島駐留の第3特別根拠地隊のように、根拠地隊直轄の地上戦闘員を有する場合もある。マニラの戦いの中心となった「マニラ海軍防衛隊」は、第31特別根拠地隊を基幹部隊としていた。

鎮守府・要港部などの防備隊の一部として置かれたものもあった。
太平洋戦争期には、各鎮守府の海兵団から実戦機能を独立させて陸上警備隊が編成された。
大地震・反乱などの事件に際し、近在の海軍官衙・学校の要員で治安任務の陸戦隊を臨時に編成したこともあった。
太平洋戦争後期には、拠点防衛のため、通信隊や飛行場要員、設営隊などを現地で再編成して陸戦隊とした例が多く見られたが、武器も訓練も著しく不足しており戦力は低かった。部隊名称としては、所在地の地名を冠して「マニラ海軍防衛隊」というような呼称が多い。

小銃や機関銃、擲弾筒、速射砲などの主要火器は、陸軍と共通であった。海軍独自の装備としては、ベルグマン短機関銃や水陸両用戦車である特二式内火艇、上海事変で活躍したヴィッカース・クロスレイ装甲車などがあるほか、25mm機銃など陸揚げした艦載火器を装備することも多かった。特別陸戦隊の装備火器を日本陸軍の同規模部隊と比べると、大口径の機関銃や装甲戦闘車両などが比較的充実していた。

服装は艦上勤務と同じセーラー服であったが、野戦用には色彩が目立ちすぎたため、日露戦争時などには臨時にカーキ色に着色するなどの措置がとられた。その後、1933年に青褐色と称する緑色の陸戦隊用被服が採用された。この陸戦服は1942年には略装として陸戦隊以外の海軍部隊でも広く用いられるようになり、1944年8月には海軍全体の陸戦隊化が進む中で第三種軍装として常用されることとなった。第一次上海事変以降に使用するようになったヘルメットは基本的に陸軍と同じものだったが、水筒などその他の装具は海軍独自のものが多い。装具の多くは長距離行軍などの本格的な野戦を想定した設計では無かったため、太平洋戦争中にはしばしば不具合が発生した。

上陸用舟艇としては、第二次世界大戦期には陸軍開発の大発や小発を特型運貨船と称して装備している部隊があった。太平洋戦争中には、アメリカ海兵隊のLVTに相当する水陸両用車である特四式内火艇が少数配備された。

なお、識別マークとしては「錨」の意匠が使用されたほか、車両には軍艦旗が描かれていることが多い。部隊旗としては軍艦旗を用いる。
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海軍陸戦隊は、主に兵科を主体とし、これに機関科、工作科、衛生科、主計科など必要な専門家を加えて編成した。兵に対しては海兵団での基礎教育として陸戦教練が一応行われていたが、小銃の射撃動作や行軍程度の初歩的なものであった。より本格的な教育は海軍砲術学校の一課程で行われており、太平洋戦争中には砲術学校から分離独立した陸戦専門の実施学校である館山砲術学校も設立された。幹部教育は、兵学校で中隊以下の小部隊運用について基礎教育がされた後、砲術学校で専門教育を受ける者がおり、陸戦専攻も少数ながら存在した。砲術学校の陸戦術担当教官や陸戦専攻学生は、陸軍に派遣されての教育も受けていた。

特別陸戦隊の要員に対しては、小銃から戦車に至るまでの各種武器の取り扱い教育が幅広く行われていた。大発による上陸作戦の訓練もされている。ただ、各特別陸戦隊(大隊規模)ごとの運用を想定した訓練・研究にとどまり、それ以上の大規模な部隊行動の研究はあまり行われなかった。

館山砲術学校には化学兵器科も設置され、化学戦教育も行われた。

2009年04月24日

オホーツク海

オホーツク海(オホーツクかい、ロシア語:Охотское море、英語:Sea of Okhotsk)は、北海道の北東にある太平洋の縁海。千島列島(クリル列島)・カムチャツカ半島によって太平洋と、樺太(サハリン)・北海道によって日本海と隔てられている。

「オホーツク海」の名称は、この海に面して最初に建設されたロシア人の入植都市・オホーツクに由来する。都市名の「オホーツク」は、この街が「オホータ川」(ラムート語で「広い川」を意味する)の河口部に位置することから来ている。

三方をユーラシア大陸に囲まれており、南に千島列島を通じて太平洋と結ばれている。海域中央部に島嶼は無く、主な島として千島列島のほか、南西部に樺太および北海道がある。また、西部にロシア領のシャンタル諸島がある。海域の支湾として北東にシェリホフ湾を持つ。主な港湾として、マガダンがある。
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オホーツク海の表面面積は約152.8万km?、平均水深は838mで、北部に大陸斜面が大きく広がり、南へ向かうに連れて深くなるという特徴がある。中央部は水深1,000?1,600mの海盆(便宜的に中央海盆と呼ばれることが多い)が存在し、さらに南に千島海盆と呼ばれる最も深い場所がある。最深部は千島列島近くで水深3,658mである。

日本海とは浅い水深の間宮海峡と宗谷海峡で隔てられているが、太平洋との間の千島列島の海峡は水深が2,000mに及ぶもの(北得撫水道)もある。

2009年04月06日

インダストリアル

インダストリアル(英:Industrial)は、

工業用の、産業の、高度に産業の発達した、などの意味。
1980年代に興った実際に工具類を使って演奏したり、製造現場で発生するようなノイズ、金属的なギター音などを電子楽器で加工し多用するロック、またはダンスミュージック、インダストリアル・ミュージック。

インダストリアル(Industrial)は、電子音楽の一種である。ノイズミュージックと関連性が大きい。

概要 [編集]
スロッビング・グリッスルが、1977年に発表した1stアルバムThe Second Annual Reportのジャケットで、「工業生産される大衆音楽」へのアンチテーゼとして“INDUSTRIAL MUSIC FOR INDUSTRIAL PEOPLE”というスローガンを掲げたことがその語源とされている。その後、このフレーズがアメリカに渡り、ミニストリー(Ministry)に代表されるインダストリアルのバンドを誕生させることになった。アメリカ以外で活躍したインダストリアルのミュージシャンには、イタリアのマウリツィオ・ビアンキ(Maurizio Bianchi)などが挙げられる。

呪詛的な声とパフォーマンスを披露したスロッビング・グリッスルなどの表現アプローチを見ると、大衆ロックというより現代音楽寄りのアート性の要素が強く、かつパンク・ロックのように既存の音楽をできる限り踏襲しないというスタイルも兼ね備えている。これはスロッビング・グリッスルの前身がクーム・トランスミッション(Coum Transmission)という前衛アート集団であったことが深く関係している。ミニストリーのアルバムTwitchに収録されているIsle Of Man (Version II)などは、スロッビング・グリッスル直系のインダストリアル本来のサウンドであり、その面影を今に見ることができる。

本来的なインダストリアルの音楽性を持ったバンドとしては、インダストリアルの概念が生まれる前からメタルパーカッションによるパフォーマンスを行っていた先駆者ゼヴ(Z'ev)、メタルパーカッションに加えドリル、チェーンソーなどといった身の回りの道具や廃材を楽器として多用したアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンやテスト・デプト(Test Dept.)、攻撃的な高周波数の音を用いたSPKおよびホワイトハウス(Whitehouse)、極度に歪めた電子音や金属の打撃音を駆使したエスプレンドー・ジオメトリコ(Esplendor Geométrico)など主に1980年代に結成、活動したバンドがあげられる。これらのバンドは1990年代に入るまでには活動を停止したり、方針転換を余儀なくされたりしたが、ゼヴやホワイト・ハウスはスタイルをほとんど変えることなく現在も活動を続けている。

アメリカで一時期流行したインダストリアルは、ミニストリーのアルバムThe Land Of Rape And Honeyのころに形成された、デジタルサウンドを中心としたスラッシュメタルである。このスタイルはナイン・インチ・ネイルズやフィア・ファクトリー、ラムシュタインのような後続のバンドを多数生んだ。しかしそれらアメリカ型のインダストリアルは商業大国であるアメリカの中で大衆向けに変化したものである。このことから、リスナーの中にはこれらアメリカ型のインダストリアルを「インダストリアル・ロック」または「インダストリアル・メタル」と呼び、従来のインダストリアルと区別する向きもある。現在では、代表格であったミニストリーやナイン・インチ・ネイルズがデジタルサウンド重視の音楽性から距離を置き始めたことに象徴されるように、バンドの音楽性の変更や、バンドそのものの解散が相次いだため、アメリカ型のインダストリアルの流れはほぼ停滞したと言っても過言ではない。

一方、ヨーロッパにおけるインダストリアルは、先に挙げた本来的なインダストリアルの音楽性を持ったバンドがシーンを牽引し、それらのバンドの動きが止まった後も、後続のミュージシャンの手によってノイズミュージックの一ジャンルとして醸成された結果、アンダーグラウンドでの動きに留まっているものの、スロッビング・グリッスルからの系統を受け継ぐ音楽性を保っているといえる。ただし、これらに対しても「インダストリアル・ノイズ」と定義し区別するリスナーもいる。一方、PIGことレイモンド・ワッツやラムシュタイン(Rammstein)のようにアメリカ型のインダストリアルの方向性をもったアーティストも存在し、キリング・ジョークもアルバムPandemoniumでアメリカ型のインダストリアルを独自解釈した楽曲を作り出し賛否両論を得た。

日本でも1980年代からインダストリアル的なアプローチを試みるミュージシャンが現れた。メルツバウ(Merzbow)などの名義で活動する秋田昌美の作品は、圧倒的な大音量からノイズミュージックの象徴とされることも多いが、音楽性そのものはインダストリアルを指向したものと言える。秋田はスロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジとの合作も手がけており、その際には「スロッビング・グリッスルの音響効果を再現した」と述べている。

また、映画「鉄男」シリーズのサントラおよびDer Eisenrostでの活動で知られる石川忠を輩出したツァイトリッヒ・ベルゲルターの元メンバーとして一時在籍していた、元SOFT BALLETの藤井麻輝は、日本語版のSPK限定ボックスの解説を執筆するほどインダストリアルに傾倒しており、SOFT BALLET名義の楽曲だけに留まらず、BUCK-TICKの今井寿と組んだユニットSCHAFTでインダストリアルを独自に解釈した音の世界を展開した。ただし藤井については、日本の音楽シーンにインダストリアルという流れを取り込んだとして評価する一方、インダストリアルおよびノイズミュージックの諸作品からの露骨な引用が多いと批判するリスナーも多い。

メディア面でも2000年に解散したインディペンデント出版社、ペヨトル工房のサブカルチャー雑誌『銀星倶楽部』で特集が組まれたりするなど、インダストリアルは日本でもあらゆる面で根強く親しまれたジャンルである。

インダストリアルの影響 [編集]
アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの「目玉親父」(水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場)に似たトレードマークは、アメリカのオルタナティブ・ミュージック界の重鎮である元ブラック・フラッグ(Black Flag)、ロリンズ・バンド(Rollins Band)のヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)の腕の入れ墨に採用された。さらに、現ブルース・エクスプロージョンのジョン・スペンサー(Jon Spencer)がかつて所属していたバンド、プッシー・ガロア(Pussy Galore)のシンボルマークに、ローリング・ストーンズの唇マークとともに(コラージュという形で)使われた。

音楽面では、デペッシュ・モードのようにインダストリアルの音源をサンプリングして用いたバンドや、パンソニックのようにインダストリアルを音楽的ルーツのひとつとするテクノ・ノイズアーティストやDJも多く、現代のポピュラー音楽の無視できない動向のひとつといえる。

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア


2009年03月22日

1/32,1/48,1/72,1/200飛行機シリーズ

「飛行機のハセガワ」を象徴するスケールモデル。シャープな凹モールド、正確なディテール再現が評価を受けスケールモデルファン向けに世界各国のハセガワ現地代理店(29ヵ国)[1]を通じて輸出されている。タミヤに並ぶ国際的に知名度が高いプラモデルシリーズ。飛行機モデルを販売する種類は日本国内随一である。
1/24カーモデルシリーズ
現行カーモデルからヒストリックカーシリーズまで手がける。ヒストリックカーは特に近年力を入れ、飛行機モデルに次ぐ「定番商品」を目指して厳選した人気旧車をモデル化している。また、WRCに参戦したラリーカーも多数モデル化されている。
1/72ミニボックスシリーズ
コレクションに最適な1/72サイズに縮尺したミニボックスシリーズ。飛行機に次いで安定した人気を誇るミニタリー戦車シリーズでロングラン販売されている。
1/350 艦船模型シリーズ
2005年に発売した日本海軍戦艦「三笠」を発売し、詳細なディテール再現とモールドがホビー市場から高い評価を受け、戦艦模型としては異例のヒットになりその後、グレードアップパーツ・オプションのエッチングパーツ追加発売など話題になった。2006年5月に、ハセガワ創業65周年企画として第二弾日本海軍甲型駆逐艦「雪風」が発売となった。
1/700 艦船模型 ウォーターラインシリーズ
飛行機関係を得意とするメーカーでもあるが静岡にあるメーカー4社(現在は3社)と共同で1971年からウォーターラインシリーズとして艦船模型を販売している。
ミュージアムシリーズ
精密さを前面に出した、本格的組み立てモデル。博物館に展示されているモデルにも遜色しないシリーズとして命名された。木製・プラスチック・真鍮・ラバー・メタルなどの素材を使用している。
海外模型メーカー代理店として
ドイツレベル、ドラゴンモデルズの海外模型メーカー製キット・完成品の輸入などを行っている。また、レベル・モノグラム、バンキッシュMGの1/32スロットカーシリーズの完成品モデルなども近年取り扱いを始めた。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

キャラクターモデル [編集]
電脳戦機バーチャロン / マクロスシリーズ / ウルトラマンシリーズ/ マシーネンクリーガー

鉄道模型 [編集]
MODEMOシリーズ
国鉄客車シリーズ
国鉄キハ35系気動車
JR東海313系電車、小田急20000形電車
路面電車シリーズ、江ノ島電鉄シリーズ車両、箱根登山鉄道シリーズ車両ほか多数。

過去の商品エピソード [編集]
ゼロ戦こと零式艦上戦闘機(52型1/32)を設計者の堀越技師自身が監修したものを発売。
イタリアESCI社(既に倒産)が製造した1/72スケールのAFV模型をミニボックスEシリーズとして販売していた。
ミリタリー関連キャラクター商品の製造販売をアクトハセガワ名義で行っていた。

たまごヒコーキ [編集]
かつて1980年代に、たまご体型にディフォルメした可愛い「たまごヒコーキ」シリーズとして発売され、ボックスアートもポップでコミカルな明るい箱絵で数十種類販売になった人気シリーズ。購買層は低学年の児童から大人まで幅広く売れていた。長い間絶版であったが、このたまごシリーズで飛行機モデルの魅力・プラモデルの工作・塗装の楽しさを知るきっかけとなる入門モデルとしての役割も果した。 2007年11月、再版された際には藤沢孝のイラストにパッケージアートが変更された。

その他 [編集]
模型用コーティングポリマーのノウハウを生かした実車用コーティングポリマーも販売している(通販のみ)
トライツールのブランド名で工具を販売している。

2009年03月07日

装甲巡洋艦

装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん)とは、巡洋艦の一種。

近代以降の大砲の威力の向上は、軍艦の防御力を向上させる必要を生じた。そこで帆走蒸気戦列艦の水線部や砲廓(ほうかく)部などの限定した部位に装甲を施した装甲艦が生まれた。そして装甲艦は大型化していき、かつての戦列艦すら上回る巨艦に発展していった。そこで大型化し巨砲を搭載する装甲艦から発展した艦を戦艦(Battle ship)、それよりやや小型で戦艦に順ずる中口径砲を搭載し、装甲防御よりも巡洋性・航行性を重視した艦をイギリス海軍では装甲帯巡洋艦(Belted cruiser)と称するようになった。しかし、この当時の機関技術では出力が低く、巡洋艦として期待できる速力は出せなかった。また、水線部のごく限られた部位にのみ貼られた装甲は帯というよりも紐と称すべき範囲しか防御できないお粗末なもので、お世辞にも「装甲巡洋艦」を名乗れる代物ではなかったのである。また、アメリカ最初の戦艦であるテキサスが当初は装甲巡洋艦に分類されていた、これらのように戦艦よりも小さい口径を主砲として持ち、防御力も低い艦を称する曖昧なものであった。なお、これらの艦は船体の外板に装甲を張ったもので、水線下にも甲板部にも装甲はない。

一方で装甲コルベットから発展していった艦もあり、それは防護巡洋艦と呼ばれた。そしてその防護巡洋艦から発展し、舷側に装甲を施した軍艦をフランス海軍は装甲巡洋艦と称した。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

1890年頃から速射砲と高性能炸裂弾の発達により、比較的近距離での砲戦場面では舷側装甲を持たない艦は非装甲部を易々と貫通され、水線部装甲を貫通されなくても、艦内部での火災等の被害を受けることが日清戦争時の黄海海戦での戦訓で明らかになった。そこで、水線部装甲に加えて舷側全体に速射砲弾を防御できうる装甲を貼り巡らせた艦を開発した。これが世界初の装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん、Armored cruiser)「デュ・ピュイ・ド・ローム」である。この艦種の有用性を目聡く見抜いたアメリカ・イタリア・ドイツ・日本らの列強各海軍は対抗や必要性から次々と採用していった。

前述のベルテッドクルーザー(Belted cruiser)と装甲巡洋艦(Armored cruiser)の相違点は、前者は防御性や航行性能に満足に行くものではなく、また、行動には主として帆走が必要であり、蒸気機関の信頼性は低く燃費の悪い機関航行だけでは行動できず、また防御も未熟な艦種であるのに対し、後者は行動の自由を長距離航行可能な機関により保障され、格下の艦の攻撃に対し充分な防御能力を持ち、優位に戦闘を進められるという決定的な違いがある。軍事に疎い執筆者の書いた資料では前者と後者を混同して説明していたりするので注意が必要である。
兵装や防御様式には各国の特色が現れる。装甲巡洋艦の元祖フランスや追従するロシアやイタリアは、航行能力優先で火力と防御に比する割合が小さかったが後に火力と防御も重視され、大型化した。一方、通商保護・破壊艦として整備されたドイツ装甲巡洋艦は戦艦に準ずる火力と防御性能を与えられたバランスの取れた艦を建造し、有名どころではコロネル沖海戦でイギリス海軍の装甲巡洋艦を撃破した「シャルンホルスト級」である。 一方、列強海軍の中装甲巡洋艦建造で完全に出遅れたのはイギリス海軍である。イギリス海軍は通商保護のための航行性能と速力性能が優先された。そのため、船体は戦艦を凌駕する大きさとなり、高性能機関を多く搭載したために建造費は戦艦よりも高価となった。 日本海軍がイギリスに発注した浅間型は、主砲こそ8インチ砲だが副砲として戦艦並の15.2cm砲を多く搭載するという、準戦艦的な艦であった。日本近海での迎撃任務のため、航続能力や航海性能は抑えて防御能力も重視した。こうした準戦艦的な装甲巡洋艦の傾向は各国に広まり「アミラル・シャルネ」「クレッシー」「フュルスト・ビスマルク」「ジュゼッペ・ガリバルディ」「ブルックリン」「バヤーン」等の有力な艦が続々と建艦された。

各国の装甲巡洋艦
この記事では世界で最初に蒸気機関のみで航行する装甲巡洋艦を発明したフランス海軍から順に各国の装甲巡洋艦を竣工順に並べる。

フランス海軍
デュピュイ・ド・ローム(1890年竣工、6,676トン、19cm(45口径)単装砲2基、19.7ノット)1隻
アミラル・シャルネ級(1894年竣工、4,681トン、19cm(45口径)単装砲2基、19ノット)4隻
アミラル・シャルネ、ブリュイ、シャンジー、ラトゥーシュ・トレヴィル
ポテュオ(1897年竣工、5,375トン、19cm(40口径)単装砲2基、19ノット)1隻
ジャンヌ・ダルク(1902年竣工、11,092トン、19cm(40口径)単装砲2基、21.8ノット)1隻
ゲイドン級(1,902年竣工、9,367トン、19cm(40口径)単装砲2基、21.8ノット)4隻
デュプティ・トゥアール、ゲイドン、モンカルム
デュプレクス級(1903年竣工、7,432トン、16cm(45口径)連装砲4基、21ノット)3隻
ドゥゼ、デュプレクス、クレベ
アミラル・オーブ級(1903年竣工、9,534トン、19cm(40口径)単装砲2基、16cm(45口径)単装砲8基、21.5ノット)5隻
アミラル・オーブ、コンデ、グロアール、マルセイエーズ、シュリー
レオン・ガンベッタ級(1905年竣工、11,959トン、19cm(40口径)連装砲2基、16cm(45口径)連装砲6基+同単装砲4基、22.5ノット)3隻
レオン・ガンベッタ、ジュール・フェリー、ヴィクトル・ユゴー
ジュール・ミシュレ(1908年竣工、13,105トン、19cm(50口径)連装砲2基、16cm(45口径)単装砲12基、22.5ノット)
エルネスト・ルナン(1909年竣工、13,504トン、19cm(50口径)連装砲2基、16cm(45口径)単装砲12基、23ノット)
エドガー・キーネ級(1911年竣工、13,874トン、19cm(50口径)連装砲2基+同単装砲10基、23ノット)2隻

2009年02月18日

CCDイメージセンサ

CCDイメージセンサ (Charge Coupled Device Image Sensor) は固体撮像素子のひとつで、ビデオカメラ、デジタルカメラなどに広く使用されている半導体素子である。単にCCDとも呼ばれることも多い。
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画像を電気信号に変換する際に、受光素子が光から発生した電荷を読み出すために電荷結合素子 (CCD: Charge Coupled Device) と呼ばれる回路素子を用いて転送を行うことからこう呼ばれる。別な転送方式を使うCMOSイメージセンサとともに良く用いられる。長らくCCDイメージセンサのほうが多く利用されてきたが、低価格品や携帯電話ではCMOSセンサの普及が進んでおり、2004年後半には総出荷個数でCMOSセンサが上回った。

CCDは、他の撮像素子に比べて相対的に感度が高く、ノイズが少ないという特徴を持つ。しかし、CCDを動作させるためには入力電圧として、高いプラス電圧とマイナス電圧を含む複数の電圧(例えば、+15V、-7.5V、+5V)を必要とする。そのためCCDの消費電流は比較的高いものになる。また数種の電圧を生成するための電源LSIが必要になる。

この構造のためにCMOSセンサに比べてCCDの製造は難しく、製造のできる企業は限られている。また、CMOSセンサに比べてかなり高価な半導体となっている(詳細は後述)。

イメージセンサの目的
撮像デバイス(撮像管、固体撮像素子)の働きは、撮影対象物から発した光をレンズなどの光学系によって撮像素子の受光平面に結像させ、その像の光による明暗を電荷の量に光電変換し、それを順次読み出して電気信号に変換することである。

固体撮像素子においては、1枚のシリコン基板上に形成された多数の受光素子の並びで光電変換を行う。受光素子に光を照射すると光エネルギーによって電荷を発生する。この電荷をCCD素子によって外部に転送するのが主な動作である。なお、受光素子として独立したフォトダイオードを用いる場合と、転送用CCDそのものを受光素子として動作させる場合がある(後述)。

CCDの動作
CCDはMOS構造半導体素子の一種で、シリコン基板表面の酸化膜上に多数の電極を設け、各電極に隣同士で異なる電圧を与えることによりポテンシャルウェルを作り出し、これを利用して電荷を保持できるようにしたものである。各電極に加える電圧を適切に制御することにより各素子の電荷が隣の素子にいっせいに転送される。これにより各素子が保持する画素ごとの電荷をバケツリレー式に順次外部に取り出すことができる。ちょうどデジタル回路のパラレル=シリアルシフトレジスタと同じ動作であり、アナログ量を扱えるシフトレジスタとも言われる。この性質を利用して一列の端から入力した電荷を素子数分の転送回数に相当 する遅延を持たせて反対側の端から取り出せば、遅延線(ディレイライン)として動作させることができる。

構造
一次元イメージセンサ
リニアイメージセンサともいい、フォトダイオードを一列に並べ、これに並列にCCDを配置している。1回の露光でフォトダイオードが光電変換した電荷を各画素に対応するCCD素子にいっせいに転送し、続いてCCDに転送パルスを与え電荷を順次読み出す。全画素の電荷を出力し終わると次の露光が可能になる。

一次元イメージセンサは線状の像しか光電変換できないので、被写体とイメージセンサを相対的に移動させるか、光学系によって同等の相対移動を行うことにより被写体全体をカバーする。ファクシミリや複写機、イメージスキャナなどで使われる方式である。移動時間が秒オーダーと遅いので被写体は概ね静止画に限定される。

二次元イメージセンサ
エリアイメージセンサともいい、格子状その他の配置で平面状に敷き詰めたものである。CCDと受光素子の配列によりいくつかの構造がある。ここではまず、一般的なビデオカメラやデジタルカメラで多用されるインターライン型構造により説明する。

インターライン型CCDイメージセンサは、受光部のフォトダイオードと電荷転送部の垂直転送CCDを一列ごとに交互に配置し、垂直CCD列の端部を水平転送CCDの各素子に接続して全体として櫛形に配置した構造である。各転送用CCDは光電変換を行わないように遮光膜で覆ってある。また、各画素のフォトダイオードと画素に対応する垂直CCDの各素子に間にはアナログスイッチとして働くトランスファゲートが置かれている。読み出しは一例として次のようにして行う。

トランスファゲートを閉じておく。
フォトダイオードを感光し、電荷を蓄積する。
トランスファゲートを開き、フォトダイオードから各垂直転送CCDに電荷をいっせいに転送する。
トランスファゲートを閉じる。
各垂直転送CCDの電荷を1回分転送し、各列の端部にあたる画素の電荷を水平転送CCDに移送する。
水平転送CCDに順次転送パルスを与えて全水平画素を出力する。
5に戻って垂直転送CCDの全画素を読み出すまで繰り返す。
これによりすべての全エリアの画素が順次走査されたことになる。

ビデオカメラに使うためには毎秒30?60回の露光・転送・読み出しを行う必要があるため、フォトダイオードから垂直CCDへの電荷転送は垂直帰線期間に、また、水平転送CCDからの読み出しは各水平帰線期間に行われる。

ほかに、垂直転送CCDの各素子で直接光電変換を行うフルフレームトランスファ型構造、受光用CCDと転送用CCDを持ち、垂直帰線期間に受光用CCDから転送用CCDに転送を行うフレームトランスファ型CCDもある。フルフレーム型は転送用CCDが不要なため光の当たる素子面積の比率(開口率)が大きく、インターライン型に比べて感度が高い。一方、電荷転送中は受光しないように機械的シャッターが必須となるため、動画撮影は難しい。フレームトランスファ型は、開口率の高い点ではフルフレーム型と同様であるが、転送用CCDを別に持つ分素子面積が大きくなる。

背面照射型CCDは読み出し回路が受光部の反対側にあるため、受光面積を広くすることが出来、同面積のチップに比べ感度が高い。

製造
CCDイメージセンサは、他の半導体集積回路と同様にシリコンウェハーから製造する。基本的には他の半導体集積回路と何ら変わりはないが、製造後にパッケージしない点が異なる。CCDイメージセンサはCMOSイメージセンサと同様に剥きだしのまま扱うため、通常は直接触れないよう製品に工夫が行われる。しかしデジタル一眼レフカメラの場合は例外である。

応用
デジタルカメラ
ビデオカメラ
カメラ付携帯電話
複写機、ファクシミリ
胃カメラ

7 3板式の別方式(緑色解像度優先)
CCDイメージセンサそのものは、他の撮像管や固体撮像素子と同様、色の識別能力は無い。一般的なCCDの光波長ごとの感度特性(分光特性)は概ね300nm?800nmでゆるやかな山型のピーク特性を持ち、可視光範囲をカバーしている。従って、カラー撮影を行うためにはカラーフィルタにより光の三原色に色分解を行う必要がある。三原色分解には加色法による方法と減色法によるものがあり、原理的には後処理の単純な加色法は色再現性に優れ、光通過量が多い減色法は感度に優れるとされるが、素子レベルの性能や後述の色処理技術による差異もあるため、製品レベルでの比較ではその差が顕著ではない。

本来、図4に示すLCDなどの表示素子のように、各画素に対してRGBそれぞれの受光部を配置することが理想であるが、各画素の受光部毎に微細なマイクロレンズを用いて集光するため、レンズの動作を考慮すると円形に近い画素形状が望ましく、素子の形状を細長くすることは困難である。また、各画素3色とすると素子の規模が約3倍に増えることになり、製造上不利である。このため、一般的には各素子毎のカラーフィルタを図5に示すようなベイヤ(Bayer)配列として、総画素数の削減をはかっている。なお、CCD撮像素子1枚によるカラー撮影を単板方式という。

ベイヤ型配列では、CCDの総画素数Nに対して、緑の解像度はN/2、赤および青の解像度はN/4になるため、各画素毎に周辺の画素の出力を用いて補間演算を行うことによりN個のRGBの組を作り出している。補間演算の方式により画質が影響を受けるため、各カメラメーカーは独自に処理方法を考案している。ここで、緑の画素を2倍設けているのは、人間の眼の分光感度が緑付近をピークとしており、緑の解像度が見かけ上の解像度を向上させるためである。

放送用カラーテレビカメラなどでは、高画質・高感度の要求性能を満たすため、3板方式を採用することがある。これは撮像管と同様に、RGB各色それぞれに1枚のCCDイメージセンサを用意し、分光プリズムにより各色に分けて感光させてRGBそれぞれの色信号を取り出す方式である。3板式には、図6のようなRGB均等方式だけでなく、2枚の緑色用素子を水平に1/2画素ずらすことで見かけ上の水平解像度を向上させる手法を採用することもある。この場合、青・赤用のCCDは2色共用としており解像度は低下するが、緑解像度の向上で補償できることを狙う。さらに、緑CCDを1枚だけにすると2枚CCD方式のカラー撮像も可能である(2板方式)。

単板式CCD撮像素子の画素配列は、これら以外にも富士フイルムのハニカム配列のようなスーパーCCDハニカムと呼ばれる独自の方式も開発されている。

CCDイメージセンサの歴史
CCDは1970年、ベル研究所のウィラード・S・ボイルとジョージ・E・スミスが、磁気バブルメモリの動作原理から着想し、半導体に応用することによって発明したものである。その後遅延線として、あるいはイメージセンサとしての応用研究が進み、1970年代後半には試作カメラが、1980年代には実用的なカラーテレビカメラが製品化され、半導体加工技術の進歩により撮像管を代替した。1990年代にはデジタルスチルカメラが誕生し、21世紀初めには銀塩カメラを代替しつつある。

冷却CCD

冷却することにより熱に起因するノイズを減らし、長時間の露光を可能にした。なお、熱雑音とショット雑音を混同する向きもあるが、まったく別種のノイズである。

CCDイメージセンサのサイズ呼称
イメージセンサのサイズ呼称については2通りの方式がある。これはCMOSイメージセンサについても同様である。

インチ単位による呼びサイズ
CCDサイズの相対比較1/2.5インチ、1/1.8インチ、2/3インチなどインチ単位で呼ばれるサイズである。このサイズはイメージセンサの撮像面の実寸を示すものではなく、呼び名に相当する管径の撮像管の撮像面サイズと等しいことを表す。2/3インチセンサの場合は(16.9mmではなく)2/3インチ撮像管に相当する対角11mm、1/2インチセンサでは対角8mmとなる。これはCCDイメージセンサの初期の用途がテレビカメラ用の撮像管を置き換えるものであったため、レンズなどの光学系を設計したり選択したりする際の便宜を考慮してこのような習慣が生まれたものである。同様な理由により、特に断らない限り画面の縦横比は標準テレビ画面と等しい4:3が主流である。

なお日本では計量法により取引における「インチ」の使用が認められないためブラウン管などと同様「1/2.5型」などと表記する場合があるが同じことである。

規格名称
特定の規格により実サイズが規定されているもので、35mmフルサイズ(135フィルムサイズに等しい36mm×24mm)、APS-C(16.7mm×23.4mm)などがある。なお、フォーサーズ・システムについては約18.0mm×13.5mm(実際は17.3mm×13.0mm)の実寸が規定されているためこの範疇であるが、そのサイズ自身は「管径4/3インチの撮像管」に由来している。

CCDイメージセンサの製造
CCDイメージセンサの製造技術は、半導体部分の製造プロセス、カラーフィルタやマイクロレンズの生成などにおいて一般的なCMOSロジック製造技術とは異なる部分が多い。このため主要な製造メーカーは半導体メモリやCPU、ASICなどとはかなり異なる。2004年における大手製造メーカーはソニー、シャープ、松下電器産業、三洋電機で世界市場の約8割を占め、これはCMOSイメージセンサにおいて首位のソニー、2位の東芝とも6、7%程度のシェアしかない状況とは対照的である。

このため、デジタルカメラやビデオカメラなどの製品では競合しているメーカーにCCDイメージセンサを供給する例は珍しくない。例として、ソニーが広範な供給を行っていた事実がはからずも明らかになった事件がある。

SONY製CCD不具合問題
SONYはCCD製造において大手であり、ビデオカメラやデジタルカメラを製造する会社へ供給していた。2002年10月にCCD素子の窓となるガラス板を接着する為に用いていた接着剤を変更した。

2004年春、業務用ビデオカメラにおいてCCD素子とICパッケージのピンを結ぶボンディングワイヤが破断する不具合が見つかった。ボンディングワイヤリング装置に不適切な設定を行った状態で製造していた事が判明したため、SONY製CCDを使用していた業務用ビデオカメラメーカー各社はリコールを行い事態は収拾したと思われた。

しかし、2004年夏から徐々に、再びボンディングワイヤが破断する問題が発生した。これは変更された接着剤に含まれるヨウ素がCCDチップとボンディングワイヤが繋がっている合金部に侵入し、欠陥が生じて合金部で破断が発生するものであった。 ボンディングワイヤリング装置の設定ミスが原因と思い込んでいたSONYは、問題のある接着剤でCCDを製造し続けた為、本問題を見過ごしてしまった。

2005年10月以降、ソニーおよびカメラ製造メーカー各社からリコール情報が発表された。 この問題によって不具合を生じるCCDは1000万個以上、問題を生じうるデジタルカメラ・ビデオカメラは100機種以上に及んだ。なお、ソニー以外のカメラ製造メーカーは「ソニー製CCD」に起因する不良であることを明言しているわけではないが、不具合の発生状況と公表された原因から同一原因であることが認めうるとされる。

また、富士写真フイルムの子会社富士フイルム マイクロデバイス開発のスーパーCCDハニカムの一部にも同様な不良が発生しており、当時の一般的な製造方法であったとも考えられる。

2009年01月28日

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万5000と徳川家康軍1万1000(うち織田家からの援軍3000)との間で行われた戦い。
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武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、徳川家康の歴史的大惨敗として有名な戦である

駿河侵攻によって、武田家は徳川家・上杉家・北条家との三正面を強いられることなり、やがて北条家を退けて駿河の平定に成功するも三方を囲まれている状況は何とも如何し難く、依然大規模な軍略は無理であった。また、武田家は徳川領にもたびたび侵攻していたが、武田家と織田家は同盟関係にあったため、徳川家から見れば織田家の援軍が望めず、どちらも小競り合いを繰り返すに留まっていた。

1571年、室町幕府15代将軍・足利義昭は信長討伐令を出し(第一次信長包囲網)、それに応える形で武田信玄は織田の盟友・徳川の領地である遠江・三河に大規模な侵攻を行う(ただし、武田家と織田家は同盟関係は維持していたため、織田家は徳川家に援軍を送らなかった)。同年、北条氏康の死をきっかけに甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った武田信玄は翌年西上作戦を開始する。

西上作戦
元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つに分けて、遠江・三河及び美濃に同時侵攻を行う。

山県昌景軍5000。9月29日、信濃・諏訪より東三河に侵攻、徳川の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城攻略後、遠江に侵攻。
秋山信友軍5000。山県隊とほぼ同時に居城・高遠城より東美濃に侵攻、織田家の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田家との同盟破棄)。11月初旬に攻略。
信玄率いる本隊2万2000(うち北条の援軍2000)。10月3日、甲府より出陣し、山県と同じくいったん諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5000を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。
総計3万の軍勢は、当時の武田家の最大動員兵力であり、まさに総力戦であった。この侵攻は凄まじく、本来、小さな支城1つ落とすのにも数週間かかるところを、1つあたり数日で次々と落としていった。一方の徳川家の最大動員兵力は1万2000に過ぎず、しかも三河には山県隊がいたため、遠江防衛のためには実際にはさらに少ない8000しか動かせない。さらに盟友の織田家は信長包囲網による近畿各地の反乱鎮圧に追われ、岩村城へのまともな支援すらできず、結果として徳川家に援軍を送れるようになるのは12月になってからだった。そのような事情もあって、武田軍の侵攻スピードや3点同時攻略(本隊・山県・馬場)の前には成すすべも無かった。

一言坂・二俣城の戦い
南進した信玄率いる武田本隊は、徳川の本拠地・浜松城と掛川城・高天神城を結ぶ要所である二俣城を包囲する。間もなく、只来城を落とした馬場隊も合流する。

10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田方の動向を探るために威力偵察に出たが、武田軍と遭遇し一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。その後、11月初旬には山県軍も包囲に加わり、12月19日に二俣城は陥落する(二俣城の戦い)。

三方ヶ原の戦い
二俣城陥落の少し前に徳川方は佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら織田軍3000の支援を受け兵力が1万1000となっていたが、依然兵力差は大きいため、武田方の次の狙いは本拠・浜松城であると見越して篭城戦を決め込む。一方の武田軍は、二俣城陥落から3日後の12月22日に二俣城を出発して遠州平野内を西に進軍する。しかし、浜名湖に突き出た半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を目的地とし、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過した。

これを知った家康は一部家臣の反対を押し切り、籠城策を取り止め三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃することを決定し、浜松城から打って出る。同日夕刻に、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍の後方を取るどころか相手は魚鱗の陣を敷いて待ち構えていた。混乱の中、徳川方は鶴翼の陣をとって戦闘が始まる。しかし、武田に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で多大な被害を受けた徳川軍は敗走する。

武田軍がわずか200名の死傷者を出したのに対し、徳川軍は2000名の死傷者を始めとして、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵といった有力な家臣から、先の二俣城の戦いの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や後述する家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田方の平手汎秀といった武将をことごとく失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田方の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったため、徳川軍を完全な壊滅に追い込むことはできず、家康の首をとることもできなかった。

家康の敗走と犀ヶ崖の戦い
徳川方の一方的な敗北の中、家康自身も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といったわずかな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この時の家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝えられ、後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城の計を行う。そして、有名な顰像(#顰像(しかみ像))を描かせると、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込んだと言われる。

一方、浜松城まで追撃してきた山県昌景は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することなく、そのまま引き上げる。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田勢を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田兵の一部が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、徳川方が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなど、多数の死傷者を出したという。

合戦後
武田軍はほぼ兵力を温存した状態で遠江で越年した後、東三河に侵攻。1ヶ月かけて徳川の三河防衛の要所である野田城を攻略する(野田城の戦い)。間もなく信玄の急病に伴い西上作戦が切り上げられ、武田軍は甲斐に撤退することを決定。その道中で信玄は病死する。徳川家のみならず、織田家の危機でもあったが、結果として信玄の病死という幸運に恵まれて事なきを得た。

その後、武田家は武田勝頼が跡を継ぐが、その際の間隙を突いて、武田の甲斐撤退から半年も経たない8月には家康は長篠城を取り戻すことに成功している。さらには奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させている。これらは後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。

対して勝頼は、先述のようなこともあったが、基本的にはこの戦の功績を維持することに成功しており、それどころかかつて信玄もだめであった高天神城を落とすなど遠江への影響力を強めている。そして信長包囲網の維持にも努めたが、長篠の戦いを経て全てを失っていくこととなる。

顰像(しかみ像)

徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館所蔵)浜松城に戻った家康は、苦渋の表情の肖像画を描かせ、これが現在、徳川家康三方ヶ原戦役画像、通称「顰像」として残っている。これは一般に、血気にはやって武田の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせたとして知られ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っている。しいては軍略の重要性を自らに確認させていたとも言われ、司馬遼太郎の家康評では、三方ヶ原の戦いを転機にして、それまでの三河武士らしい激しい気性から後年の奸智に長けた謀略家としての面が強くなっていったとしている。また、有名な俗説に、この戦いにおける武田方の戦略をそのまま後の関ヶ原の戦いで用いて、大阪城に篭城する西軍を野戦に誘き出したというものがある(ただし、このような敵を城からおびき出して野戦で決戦を挑む戦法は、信長が得意としていた戦法でもあり、そこから家康が学んだとも考えられる)。

三方ヶ原の戦いをめぐる論点

家康が出陣した理由
通説では、武田信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。

あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(逆に言えば、ここで武田が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田・武田のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川家に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた(染谷光広、吉川弘文館『日本歴史』360号「武田信玄の西上作戦小考」)と言った戦術的面から見た説もある。

また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。

ただ何にせよ、それらを含めて信玄は家康を出陣せざるを得ない状況に追い込んだとも言える。

両軍の布陣
この戦において徳川方は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる(陣形に個別の説明があるためこちらも参照のこと)。

徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説
そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。
最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。
池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』では、家康は合戦をすること自体が目的であったため勝利よりも鶴翼の陣形で一当たりし、続いて逃げることが目的だったと描写されている(鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くため、逃げやすい)。
武田方が魚鱗の陣を取った理由の説
鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。
織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。
他にも説はあるが、いずれにしてもはっきりしたことはわかっていない。

合戦跡
実は三方ヶ原の戦いにおける主戦場はわかっていない。現在の三方原墓園(浜松市北区根洗町)に古戦場の碑こそあるが、特定されているわけではない。

一方で犀ヶ崖の戦いにおける古戦場ははっきりしており、犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)がある。布橋の記事を参照。

逸話
敗走中の家康が途中で腹が減ったので茶屋の老婆より餅を買い求めて食べていた時に、敵が迫ったので逃げた。代金を払ってなかった(食い逃げ)ので老婆は追いかけて、追いついた家康より代金を受領した。この逸話より、茶屋があったとされる地域には小豆餅(浜松市中区の町名)の町名が残り、家康が代金を払ったとされる地域は「銭取」(同区和合町の地名)と呼ばれている。ただし、命からがら逃走していた家康がいくら空腹と言えど途中で悠著に茶屋に寄ったとは考えにくく、また、騎乗していた家康が徒歩の老婆に追いつかれたというのも考えにくく、信憑性は薄い。上記の地名も、「小豆餅」は合戦での死者を弔うためにこの地に小豆餅を供えたことに由来し、「銭取」は山賊が通行人から銭を取ったという話に由来するという説があり、そもそも当時この地域には、茶屋どころか民家の類も存在していない。
敗走中の家康が途中で腹が減ったので付近の農家に食べ物を求め、家の者は粥を出した。後に家康は、この農民に「小粥(おがい)」という名字を授け庄屋にした。また、家康が武田の追跡を逃れるため八幡神社の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に知らせて、家康は尾を隠し、上手く逃げおおせた。後に家康は、この農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。
犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがったので、家康が僧侶の宗円を招き武田勢の霊を弔うための供養を行ったところ、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。

2009年01月20日

男性アイドルの概要

男性アイドルは1970年代以降ほぼジャニーズ事務所の一人勝ちと言って良い。特に1980年代少年隊、シブがき隊、光GENJIなどが人気を博し、特に1990年代初めに登場したSMAP、TOKIOが、歌手というよりバラエティタレントとして人気を得たこと、(男性アイドルということもあるが)メンバーが30代になってもアイドル的な人気を獲得していることも、アイドル像を大きく変化させたと言える。最近では嵐のメンバーのうち櫻井翔は報道キャスター(月曜日限定)としての面を見せ、二宮和也に至ってはハリウッドデビューを果たしている。その後、ジャニーズ以外の男性アイドルDA PUMP、w-indsなどを始め多数の事務所からデビューしている。両者が現れる直前に登場し“ジャニーズ系を超えるか”と見られたのが高橋良明である。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

一般的に、女性アイドルがかわいらしさやあどけなさをセールスポイントにするのに対して、男性アイドルは格好良さ、爽やかさ、スポーティさなどをセールスポイントにする(王子も参照)。どちらも性的な魅力を前面に出さない(清純さを強調する)点で共通しており、アイドルの恋愛沙汰はそれ自体スキャンダルとして取り上げられることが多かった。女性アイドルでは、主たるファン層である若い男性の需要に応えるためにいわゆる「健康的なお色気」(水着グラビア等)程度は提供されることもあるが、男性アイドルについては女性アイドルと比較しても性的な面が隠される傾向があり、中性的な顔立ちや体つきの少年がアイドルとして売り出されることが多い。

1950年代には石原裕次郎が日活映画や歌で活躍し、1960年代には御三家と呼ばれた橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦が現在で言うアイドル的人気を博したが、当時は「アイドル」という言葉が生まれる前であった。1960年代前半にスリーファンキーズや、現在もジャニーズ事務所に名を残すジャニーズ(あおい輝彦など)がデビューし、男性アイドルグループの礎を築いた。さらに、1960年代後半にはグループ・サウンズのブームがあり、ザ・スパイダース(かまやつひろし、堺正章、井上順など)やザ・タイガース(沢田研二など)の人気はアイドルと呼べるものであった。

1970年代に入り、徐々にアイドルという言葉が使われ出した頃に登場したのが新御三家(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)で、3人とも主に歌手として活動を行った。さらに、ザ・タイガースの事実上の解散後、ソロあるいはバンドとして活動を続けた沢田研二もザ・ベストテンなどの歌番組の常連として人気を保った。70年代には他にもフォーリーブス(ジャニーズ事務所所属の男性アイドルの先駆)、フィンガー5(兄妹5人組。人気絶頂期にはメインボーカルの晃(四男)にアイドル的人気が集まった、男女混合アイドルグループと解すこともできる)などの男性アイドルグループが輩出した。この時代の男性アイドルのイメージとしてよく使われたのが「白馬に乗った王子様」であり、手の届かない別世界の存在として記号化されることが多かった。

1980年代に入ると、男性アイドル界はジャニーズ事務所を中心に回るようになっていく。まず、1979年に放映された3年B組金八先生に生徒役として出演したたのきんトリオ(田原俊彦・近藤真彦・野村義男)の3人が80年代に入って次々とレコードデビューし、ヒットを飛ばすようになった。さらにシブがき隊、光GENJI、少年隊など人気グループを次々と世に送り出したジャニーズ事務所は、押しも押されもしない男性アイドル界のトップ事務所として芸能界に君臨することとなっていった。

1990年代以降、男性アイドルのイメージが、それまでの「王子様」としての存在からより身近な存在へと変わっていった。その中で、デビュー当初からコントなどのお笑いに近い仕事もこなしてきたSMAPが人気グループに成長し、彼らを擁するジャニーズ事務所の男性アイドル界の王者としての座は揺るぎないものとなっている。そのためもあってか、女性アイドルで起きているようなアイドルの細分化(「癒し系アイドル」など)は、いまだ男性アイドルでは顕著となっていない。また、ジャニーズ所属以外の男性アイドルがゴールデンタイムの歌番組にほとんど出られないという謎の現象も起こっている。

2002年にはメンバーの平均年齢が11.5歳(当時)で初の小学生がCDデビューとなったジャニーズJr.のグループ「Ya-Ya-yah」や、2007年に全員が平成生まれのジャニーズの新ユニット「Hey! Say! JUMP」が誕生した。

国民的アイドルの概要
1980年代末には「国民的アイドル」という呼称(概念)も登場した。「国民的アイドル」という言葉は、「国民的美少女」(後藤久美子のキャッチコピー)及び「全日本国民的美少女コンテスト」(国民的美少女コンテスト)から派生したものと思われる。同コンテストは、歌手というより女優(あるいはモデル)を発掘するという意味合いが強いと見られ、アイドル=歌手という図式の崩壊・変容に一役買った面がある。近年国民的アイドルと呼ばれたのはSMAP、SPEED、モーニング娘。、松浦亜弥、上戸彩などである。

その条件として、まず一部の者や限定的な趣向者のみにしか知られていないアイドルではなく、年齢層も子供から高齢者まで幅広く認知がなければならない。さらに、人気が長い間高いこと。芸能界では一般的に視聴率が取れる人物(グループ)を指す。また、高視聴率のメイン番組を持っていることなどが挙げられる。

アイドルのファン
アイドルのレコード(CD)などを熱心に購入するだけではなく、コンサートやイベントに参加する者も多い。芸能プロダクションなどが運営するファンクラブに所属する者も多い。

ファンがアイドルに向けた熱意が高じた結果、芸能プロダクションなどの公式ファンクラブとは別に、1970年代半ばにはファン側が主体の全国規模のファン組織が登場する。キャンディーズのファン組織「全国キャンディーズ連盟(全キャン連)」が、その初めての例と言われる。これが俗に言う「アイドル親衛隊」の始まりであり、後に親衛隊連合、親衛隊同盟という二大勢力に発展していく。また「追っかけ」や「カメラ小僧」という行為(ファン像)も生まれてきた。

ファンの多くは、内心は熱狂的だが、表面的には密やかな態度であると見る向きもある。その一方、アイドルへの思いが高じたあげく、アイドルを傷つける行為に走る例も見られる。古くは美空ひばりやこまどり姉妹がファンから硫酸をかけられた事件が挙げられる。1980年代にも、松田聖子がコンサート中にステージ上でファンに殴られた事件、倉沢淳美がサイン会でファンから腕を切りつけられた事件などが発生している。

しかしながら1990年代以後芸能界においてアイドルという言葉が極めて負の意味で用いられるのに合わせるかのように価値観の変化や娯楽の多様化などから若年層のアイドル離れが急激に進み少子化による若年層そのものの減少し、これらの層の中には『萌えブーム』へつながる2次元の美少女キャラクター(漫画・アニメのヒロインなど)のファンへと移行してゆく者が出現したこともあいまってアイドルイベントに足を運ぶ若者が急激に減少し今日では経済力に勝る中年層にむしろ的を絞る商法を行う場合も出て来ている。

ファンの心理も変化しており、1980年代ぐらいまではファンの親衛隊が存在し、番組の進行のためにアイドルをネタとして侮辱すると熱狂的ファンから司会者や芸人あてに罵声や抗議の電話・手紙がくることが多かった。しかし、昨今は自分の応援するアイドルがバラエティ番組で水に落ちたり、パイ投げを受けたりすることがおいしいと思ったりするファンが多く、インターネットの電子掲示板への書き込みでもそういうシーンを望むファンも多数存在している。

雑誌の表紙
小学館の学習雑誌の表紙は、1970年代後半からアイドルの写真、いわゆる表紙グラビアになった。それ以前は子供の写真か、写真技術が未発達なうちは子供を描いた水彩画が用いられていた。明治時代の少年雑誌では、グラビアに政治家の写真が使用されていたことと対照的である